昭和51年05月12日 朝の御理解



 御理解 第2節
 「先の世までも持ってゆかれ、子孫までも残るものは神徳じゃ。神徳は信心すればだれでも受けることができる。みてるということがない。」

 教祖様はこのように教えて下さるのですから、お道の信心をさせて頂く全信奉者が、皆、お徳を受けて、そして教祖様のお言葉を本当だと実証して行く、証を立てて行く、おかげを頂きたいもんだと思います。ですから先ずなら合楽におかげを頂いておる皆さんは、全部お徳を受けて、人間の言うならば幸福を満喫させてもらい。そしてあの世にも持って行き、または子孫にも残しておけるほどしのおかげを、もう一人ひとりが一つ頂かなければいけません。
 頂くという私はあの、信念を持って信心の稽古をさせて頂くと。三代金光様がお書き下げを下さっておる中に、「信心の稽古」とお書きになっておられるのが、今共励殿に額に下がってますね。信心の稽古。だからあのお書き下げを拝ませてもらう時にです、もういつも思うんですけれども、今直面しておる一つの難儀とか、問題とかをです、ね、あの難儀とか問題とかせずに、その事を通して稽古させて頂くんだ。
 んなら稽古させて頂く姿勢は、体制は整うておるかという風にです、あの自問自答して行けれる信心を頂かにゃいかんです。もう全てがね、信心の稽古に極まるのです。難儀じゃないです困った事じゃないです、腹の立つ事じゃないです。その腹の立ったり難儀と感じておる事をです、ね、いかに信心の稽古を持って、それを徳にして行くかと言う事です。ね。ですから言うならばです矢張り神様を信じての生活。
 どこを信じるかと言うとね、この神様は人間氏子がどうでも幸せになってくれ、お徳を受けてくれと願っておられると言う事を、先ず信じなければいけませんです、金光様の御信心は。ね、この神様はどうぞ信心しておかげを受けてくれよと仰るのは、信心してね徳を受けて幸せになってくれよと。そしてあの世にも持って行け、又は子孫にも残しておけるようなおかげを受けてくれよという願いに日夜、心を砕いておられる神様だという事です。ね、どうかして徳を受けさせたい、どうかして力を与えたい。ね。
 そういう願いを持ってござる神様だと信ずる事です、神様を信ずると言う事は。金光教の信心は。ね。例えばお願いをしておる事がです、必ずおかげになるがとおかげどん信じよったっちゃ信心は出けんです。ね。よくそんな人があります。いやおかげ頂くがお願いしときゃ。親先生任せになっときゃおかげ頂くがと。そう言う事を平気で、例えばあの言うておる間は、まだほんなモンじゃないです。ね。
 何を信じとるかち言うと、おかげを信じとるとじゃん。おかげで人間が幸せになるならば、私はあのそれでもいいです。けれどもおかげだけでは、人間は幸せにならないです。ね。億のお金を下さいんなら、やろうそれで幸せになるかてならんです。どうぞ健康にならせて下さい、もう医者から見放されました。助けてやる助けてやったって思うただけでも幸せになれんです。ね。信心はもうどこまでもです、ね。
 この神様は氏子信心して、ね、幸せになってくれ、徳を受けてくれ力を受けてくれ、しかもあの世この世を通してのおかげを頂いてくれというのが、神様の願いですから、そういう願いの神様だと信ずる事です。氏子に幸福になってくれという、と願うておられる神様なんです。日夜その事に心を砕いてお出でられる神様なんです。そこであの手この手を使うて力も下さろうとする、お徳も下さろうとする働きがあるのです。
 そこでいわゆる信心の稽古という金光様のお書き下げを見る度にです。さあこの問題をいかに受けて、日頃頂いておる教えをいかに生かして、これを力にするか徳にするかという、言うならば思いが心の中にピタッと来るようなおかげを頂かにゃいけんです。おかげを信じての信心しよるとね、自分の思うとるおかげにならんと、もう信心はストーッと落ちてしもうたり、止めてしもうたりするです。ね。
 神様は私どもにそういうおかげ、例えば信心をすれば誰でもお徳が、ね、誰でも受ける事が出来る、みてると言う事がないのが、神徳だ。ね、だからその神徳を頂かせて頂く事の為にお互い信心をさせて。いやこの世に生を受けたと言う事はね、この世に生をこの世に愈々清まりに来たと言う事なんです。本気で清まって真の信心させてもろうて、真の信心を現して行く事によって、だから徳を受けることの為にこの世にはお互いが生を受けておるんだという事です。
 もうここん所をね、根本的な所にあの思いをそこに置きますとね、日々の信心生活が非常に力強いものになって来るです。ね。おかげを信じとる信心では、もうフラフラしとるです。おかげかに見えるとはあ喜ぶ。おかげがない方に見えるともうグラッとする。いわゆる一喜一憂であります。ね。おかげを信ずるのではないね神様を信ずる。ね。神様の働きは氏子幸せになってくれ。
 幸福になってくれ徳を受けてくれという願いだけしかおありにならない神様だと言う事を信じての生活を、私は今日は信心生活だと思います。昨日は森部の高山さんの所の謝恩祭でした。本当に思いを込めたお祭りでした。合楽のその御信者さん方、まあ宅祭りでもなさるというお宅は、もう本当に宅祭りに賭けられますですね。もう一ヶ月もそれ以前も前から祈りに祈り、願いに願ってそしていかにして、まあ親先生に喜んで頂くお祭り、神様に喜んで頂くお祭りと言う事を、そこに本当に賭けられる。
 あれだけでも信心になると思うですね。奉るという字をこう書くのを片一方の、昨日は(ようするに?)お話をしませんでしたけどね、頂いたのがこういう風に頂くんですよ。そして、ここに木がある訳ですね。だからこちらのが一つ欠けておる訳です。ね。これはもうえらい元気よくパーッ、パーッとこう跳ねる所ですからね。そういうお知らせを頂いて、まっ色々思わせて頂いたんですけれども。
 本当に思いを込めてお祭りを仕えると言う事が丁度あの、お祭りを仕えるような気持ちで、日々の生活をさせて頂いたら素晴らしかろうと思いますね。どこにお粗末があっちゃならん、御無礼があっちゃならん、不浄どん掛かっちゃならんという、もうそこに思いを込めるんです。だから日常、お祭りはこういう奉るという、ね、お道の信心生活は、奉る道だと頂いておりますね。奉る道という字も通じるの通じるですね。通るという字。奉る道、金光様の御信心は。一切を神様に奉っての生活。
 勿論身も心も家も蔵も財産も、神様へ言うならば神様に奉ってしもうておる。だから言うならば神様の御物。この命もね心も同時に家も、蔵も財産も神様の御物という頂き方。ですから、体を使わせて頂く時には神様にお許しを頂いて使わせて頂く。私は昨夜不思議な不思議な事が、今朝まで続いてるんです。昨日わたし朝からもうとにかく体がきつかったです。もう本当にとにかく風呂入ってから、一人で昨日入りましたから一人でこうやって洗う時には、やっぱゴシゴシ洗いますからね、そのそれがきついんです。
 まあいつも思うんですけれども、糖尿病っちゃこげんきついもんじゃろうかと何時も思うです。もう手ばこげんして上げるごとなかごときつうなるです。昨日もあちらへ参りましたけどもとてもきつかったです。所がまあ言うならば好きな事をする時にシャンとするようにですね、まあ愈々さあお装束をつけて御神前へ出ると何となしにシャンと致しますれども、終わってしまうともうきつい。
 昨夜も夜中頃でした。誰からここの裏の後ろのここのぼんさんを親指でグーッスとこう、誰か押さえて頂いておるお夢を頂いとったです。そして目が覚めたら、もう実に爽快で、もうとにかく手ばこうこうして見ろうごと、その元気がある訳です。そして私は、ほんに人に教えながら、和尚んごたる事を言いよるばってんか、ほんにつまらん事だなと自分で思いました事はね、私は糖尿病じゃけんこげんきつか糖尿病じゃからこんなにきついとと、いうのが観念の中にやっぱあるんですね。
 観念を捨てなきゃいけないと人に言っておりながら、なら実際自分がきついとはあ、自分は糖尿病だからこの様にきついんだなあと。ほらあもう沢山な、沢山な飲み物を飲みますから、沢山、小便を行きます。その小便はもうサイダーの倍ぐらいはある甘いとが出るんですからね。やっぱ体の糖分がこれだけ出るなら、やっぱきつかはずだという風に、もう決めてるんです。ほれはあ私はここの思いを変えて行かにゃいかんな、今朝から思わせて頂いてるんですけども。
 この元気がいつまで続くか分からんけれども、もう実は昨日一日大変疲れとったです。きつかったです。所がこの後ろのここん所を誰かが一生懸命、親指でブーッすと押さえてもらったお夢を頂いて、目が覚めたら今言うように手ばこうやって動かして見ろうごと元気がモリモリこう湧いてるんです。きつさがないんです。ね。確かに健康でも何でもですね、もう何でもですけれども、神様のおかげを頂かなければ立ち行かんと言う事です。ね、そこに自分の無力と言う事を悟らせてもろうて一切を神様に頂く生活。
 だから家の蔵も財産も、神様の御物と観念する。そこで百円使わせて頂く時には、神様お下がりを頂いて百円使わせてもらいます。沢山お金を持っておる人は、一億円使わせて頂きますという時に、神様のお下がりを頂いて一億円使わせて頂くと。この手もこの足も神様使わせて頂きますと。女の方が御飯を炊かんならん。その言うならば炊事をせんならん。それを自分でするのじゃあない、もうこの体は神様にお供えしてあるとであるから、一応神様からお下がりを頂いて。
 そうして使わせて頂くという生き方が、金光様の御信心の、言うなら徹底した頂き方です。ね、だから成程奉る道だと言う事が分かりましょう。金光様の御信心は奉る道なんです。ね。所がです例えばんならここで熱心に信心をなさる方が、必ず毎年毎年沢山のお金をかけて、それこそ合楽の方達はもう本当に沢山の金をかけられますもん。誰でんにだからゴロゴロやっぱ宅祭りは出けん。ね、けれどもその賭ける事に、言うならば信心を自分の信心を賭けておられる皆が。これは皆の方に言えれる事です。
 ですからもう一月も前から一生懸命その事の為の祈りを、祈りに祈り願いに願って、お粗末がないように、御無礼がないように、神様に喜んで頂くことは勿論だけれども、親先生に喜んで頂くようにと思いの限りを尽くす。私はそういうお祭りを仕えるような在り方がね、日常生活でなからにゃならん。ははあ昨日あの高山さん方でこれを、片一方にこれを頂かなかったのはね、こう踏ん張ってヤーッとこう、ね、サーッとして跳ねやんでしょう、こっちに本当は。
 そこん所は見事に出けておるけれども、これは常日頃のこの信心がです、出けて初めて奉るという事になるんだ。奉る道とはそういう道なのだ。そういう道を歩かせて頂くならば、なら今日の御理解じゃないけど、お徳を頂かんはずはないと言う事になるのです。お商売をさせて頂いてもお百姓をさせて頂くでも、この生き方です。それが身について来るという事なんです。ね。先日からあの色紙を持ってみえて、何か先生一筆書いて下さいと言うて持ってみえとった。
 でそれをきれいな額に入れて御神前に、こう置いてあったからその事からヒントを得て、まあ、お話聞いてもらったんです。それには自然に溶け込む事は自然を生かす事と書いてあります。自然に溶け込んで行くと言う事は、自然を生かす事だと。言うならば神の心を心として行くという生き方なんです。ね、天地自然そのまま天地金乃神様のお姿です。その天地金乃神様のお姿を心の中に、こちらが溶け込んで行こうと努力する精進する。もう金光様の御信心はねこれです。
 そこでですなら神様が水ならこちらも水にならなければ溶け合わんですね。神様が水であるのにこっちが油ならば、離れてしまういくら側におったっちゃね。神様が油ならこちらも油にならなければ、溶け込む事が出けません。神様に接近する事が出けません。そういう意味で難儀を持っておる合楽の例えば、今合楽では貧争病のない世界に住んどると言われるほどしの人達の場合なんかは、始めからそうではなかった。ね。
 それこそ家庭的な問題やら、又は経済の問題やら又は、健康の問題やらで御神縁を、段々10年20年と信心をさせて頂いとる内に、それこそ私が豪語しておるように、ほどしの信心者ならば、今合楽で貧争病のないおかげを頂いておるという風に申します。けれども次から次と新しい方達がお参りをして来る。その人達はまだ貧に悩み、争に争いに悩み、ね、病気に苦しんでおるという人達が、また沢山ある訳なんです。だからそういう人達が段々おかげを頂いて、貧争病のない世界に住まわせてもらう。
 だけではない信心の真がそっから現されてです、それこそ真善美輝くばかりの信心生活が出けられるようなお徳を受けて頂きたいというのは、これはもう私の日夜の祈りであり、願いなんです。ね。今悩みの悩み苦しみのために参って来とる者にはどうぞ、ね、神様の示現が始りますように。神様の不思議な不思議な働きを示し現して下さるように。ね。そこで、一遍におかげをやったっちゃ信心が分からんから。
 その事を通して信心が分かりますように。ね、信心が分かった時点で貧が無くなり、争が無くなり病が無くなるというようなおかげを頂いて、信心が身についてその信心を内に、そしてそれを今度は外に現して行くという、信心の真が現されるほどしの信心信者にお取立て頂くようにと言う事を、一人ひとりの皆さんの上に、私の祈りがそれに掛けられてあるんですから、皆さんもそういうおかげを願わなければ。
 私の心と離反する事になる。ね。私が水なら、皆さんも水にならなければ、私が赤の祈りをすんなら、皆さんも赤の祈りをなさらなければ一つにはなれないのです。ね、今日もギリギリ私はいわゆるお徳を受けてです、教祖様は嘘を仰っていないと言う事を、実証出けれる一人ひとりになりたいと言う事を今日は聞いて頂いてるんですね。ね、それには神様を信ずる事だと。おかげを信ずるのじゃない。神様を信ずると言う事は、ね、人間氏子が徳を受け力を受けて、ね。
 幸せになってくれと言う事だけを願っておられる神様だという事。だからどういう問題に、例えば直面致しましてもねはあこれで信心のけいこです、させて下さるんだという頂き方。ね、そういう頂き方から力が頂かれて来るようになる。ね。ここで成り行きを大事にするとこう、言う事は言うならば、いかに自然に溶け込もうとする姿勢であるかと言う事が分かります。ね、成り行きそのものを尊ぶ大切にする。ね、それはそのまま神様の働きを大切にする事であるから、神様を大切にする事と同じ事。
 そういう日々をです繰り返し、繰り返しして行く内に生まれて来るのが体験である。体験の宗教と、昨日の御理解はね。金光教は体験の宗教なんだ。そういう体験が積まれに積まれて行く所から、肉眼を置いて心眼が開けて来る。難儀と思うておったのが難儀ではない。それこそお徳の固まりだと分からせて頂くように段々なって来る。ね。もうその辺からお徳が身について来る事の楽しさ、喜ばしさというものが頂けて来る生活が出けるのです。ね。自然に溶け込むと言う事が。
 そのまま自然を生かす事と言う事は、私共は溶け込むと言う事がです、神様の心を心として、神様の心の中に一緒に入って行くと言う事がです。ね、神様を生かす事と言うのですから、私共一緒に生かされておる事に気がつくのです。ね。それを御神徳と言う。ね。それは、神様は大海のような、まあお方と致しましょうか。その大海の中に私のんなら一滴がそれに加わると致しましょうか。もうそれは一滴の水ではなくて、大海の水なのであります。それがお徳なんです。
 だから人間の知恵力では及ばない、それこそ夢にも思わなかった様なという、おかげの展開になって来るのです。ね。皆さんが御大祭を仕えられる、皆さんがお祭りを仕えられる。ね、はあこげな不浄が掛かってはならない。神様がお喜び頂けるように、お喜び頂けるようにと思いをそこに砕いての、いわばお祭りと言う事になる。そういう生き方がです只今申しますなら、この奉るのと言う事になる。そういう生き方をです、ね、言うならば生き方の雛型なんです。
 お祭りを仕えるまでのあの心準備とか、あの姿勢とかというものは。ね。ですからそういう、いつもがお祭りを仕えるごたる気持ちで、日常生活が段々出けて来るようになる時にですね通ずる道ね、奉る道と事を通ずるという字を持って下さると言う所からです、天地に通ずる、天地に通うね天地の神意に突き貫かれる所のおかげを頂いて、初めて自然に溶け込んだと言う事になるのです。ね。今日は教祖の神様の、言うならば御理解を、御教えをですもう絶対のものとして。
 そしてそれを私が頂かなければ、ね、金光大神を現す事は出けないと言う事になるです。ね。先日から佐賀の武雄教会の教会長先生、原田先生がお参りをして見えて、最近わざわざその事の為に参られたような感じでした。今教団で神様を現すと言う事が言われておりますが、先生神様を現すと言う事はどう言う事でしょうかと。ね。それは今成程教団で言われてる所の、ね、頂く信心から生みなす信心になる事ですよと。そんなら生みなす信心とはどう言う事かと。
 と言う事を一口の御理解でその事をお伝えさせて頂きましたら、もうはあそうですともう本当に、もうこんな簡単な事がどうして分からなかっただろうかと言う様な、あの表情であの帰られました。ね。私は今日は金光大神のお言葉、金光大神の教えを現すと。ね、それを金光大神が嘘を教えておられないと言う事を実証すると言う事。ね。その実証して行くと言う事がです、金光大神を現す事になり、言うならば生みなすと言う事に繋がるのです。私どもは金光大神を現さなければいけんのです。
 もう少し身近な手近に言うならば、ね、親先生を現さなきゃいけんです。親先生の言われる事には間違いないという、おかげを皆さんが頂かなければいけんのです。親先生を現す事の為に。ね。金光大神はこげん誰でんお徳は、誰でも受けられると言われる、みてるという事はないと言われるばってん、こうやって見渡して見て、ね、大してお徳を受けとる人も沢山なござらんごたる感じ。
 だから誰でんじゃやっぱ受けられんとじゃろうと言う様な、曖昧な御教えにするのじゃなくて、もう私皆さん一人ひとりが頂くという気になる事。ね、それにはどう言う所に思いがおかれなきゃならんかと言うと、神様を信ずると言う事。ね、神様を信ずると言う事は、おかげを信ずると言う事ではない。神様の御思いを信ずると言う事。神様の働きを信ずるという事。ね。
 その神様の御思いは氏子信心しておかげを受けてくれよ、信心して徳を受けてくれよ。あの世にも持って行ける、そしてこの世にも残しておけれる、この世でも人間の幸福はここにあると言う様な、幸福感に浸らせて頂きながらの信心生活をしてくれよというのが、神様の願いだと言う事が信じられた時です、どういう問題であっても、そういうおかげを頂く事の為のそれだと言う事になる訳です。ね、
 いわゆる信心のけいこと言う事になるのです。ね、ですから神様を根本的に信じなければ、そういう思い方は出けません。もういい加減皆さんも合楽に通うておられるのですから、ね、神様を信ずる。いやあこの神様はもう絶対の神様だ、間違いのない神様だ。絶対のと言う事はどう言う事かという、氏子に幸せになってもらいたいの一念であられると言う事。はぁあの氏子が一つ貧乏するがええが。
 あのが病気するがええがと。はあ家の中がいつも揉めとりゃ良かがと言った様な事ではない。ね。貧争病から、ね、脱却して愈々信心の真を現して行き、真善美の輝くばかりの信心生活が出けるような、おかげを頂く事の、のみを祈り願っておられる神様だと。いや信ずるとですもうそこから生き方が変わって来るです。神様がおかげ下さる事を、信じてお参りしよりますじゃつまらんのです。ね、神様の御思いを私は分からせてもらい、そしてそれを信ずる生活。
 そこから自ずとそれこそ皆さんがお祭りを仕える前に、ね、一生懸命の思いを砕かれる様な奉る道というか。そういう道が自ずとついて来る。それをお祭りを仕える時だけではない、いつもがそういう生き方を持って、私どもが信心の稽古に励ましてもらう。その信心の稽古と言う事は、神様を信じて稽古しなければ、それは大した稽古にはなりません。たわいもない事になるです。ね。神様を信じて稽古しなければ、ね。今日も私朝方あの朝控えで幹三郎と久しぶりで、ちょっと一言でしたけども話した事でした。
 ある教会の話が出まして、本当にあの神様を信じてお取次ぎをしておられる、一切の事を見る聞くそれを行うという生き方のない教会ばっかりになったねという話をした事でした。ね。だから、先生が出て来てから、神様を信じとらんから、それであの自分でああしたり、こうしたりと言う様な事になって来る。ね、神様を今日申しますような意味合いにおいて、信じての取次ぎ者というか、信者教会にならなければ、生き生きとしたものが生まれて来ませんです。ね。また私どもの心が勇んで来ないです。ね。
 私どもは神様を信じて、その問題を通して、はあこれで稽古させてもらう、そこから勇みの心が生まれて来るです。神様も勇みなさるです。ね。そこから例えばあのお勇みなんかと言う事になって来る。私どもがほおこげな事で神様はお喜びなさるとばいなと思う様な事を、の時にカチッとお勇みがあるでしょう。ね、そういう思いが愈々育って行く事が信心なんです。そういう頂き方をさせてもらう時にです、必ず誰でも私はみてると言う事のない神徳に触れて行く事が出来ると思います。
   どうぞ。